フクシマの正義〜「日本の変わらなさ」との闘い〜、開沼博、幻冬舎、p.380、¥1890


 この書評でも取り上げた「漂白される社会」で今注目の若手社会学者・開沼博が、一つ前に上梓した評論集。雑誌や新聞などで発表した福島原発事故関連の原稿を集めたものなので、ダブり感や整合性の面で気になる所が散見されるが、筆者の地に足の着いた社会観、問題的の確かさがよく分かる内容になっており悪くない。知識人・識者と呼ばれる人たちが、傷つかないポジションから上からものを言うような言説への違和感、原発事故で浮き彫りになった都会で論じられる“フクシマ”と実際の“福島”との乖離などを鋭い切り口で論じている。評者には共感できる観点が多く、筆者の処女作(出世作)『「フクシマ」論〜原子力ムラはなぜ生まれたのか』をさっそく発注してしまった。
 筆者は福島原発事故後に急に原発を語り出した識者たちの姿に、善意同士のぶつかり合いを見る。他者の苦痛に対して「善意」を装うが、自分の身に降り掛かってくると善意は分裂する。識者たちは一枚岩でなくなる。例えば異なる主張を持つ者が、互いにカルト団体のごとく罵倒しあう。「被害者」や「弱者」を見出し、鬼の首を取ったように大騒ぎする。エンターテイメント化したTV番組や週刊誌で見た風景ではないか。ウンザリした方も少なくないのではないか。
 筆者の目は原発事故を超え、「変わる変わる詐欺」を繰り返した日本の戦後社会を見据える。日本の知識人は問題の原因を「悪」のせいにし、自分を安全地帯(筆者は後出しジャンケンと表現する)に置いて免責された気分になり、解決すべき問題の放置を繰り返した。当事者を振り回すだけ振り回して、結局何も解決していな。沖縄しかり、福島しかりである。瞬間的に大騒ぎをするが何も変わらない。しょせんは他人ごとでしかない識者たちによる忘却の反復運動が延々と繰り広げられているというのが、戦後社会に対する筆者の見立てである。